水俣病新聞記事と記事へのコメント

2006年3月24日の南日本新聞紙上に掲載された記事を紹介し、若干のコメントを追加する。字が小さく読みにくいので、以下に全文を再記する。
 鹿児島県の水俣病認定審査会が委員不在になり二十四日で一年を迎える。現行の認定基準より幅を広げた二〇〇四年の関西訴訟最高裁判決で二つの基準が生まれ、熊本県でも審査会は停止。両県で約三千七百人の申請者が未審査のままになっている。事態は打開できるのか。鹿児島県審査会の前会長、納光弘鹿児島大学教授に聞いた。(社会部・園田尚志)

 ―鹿児島県審査会が停止し一年になる。
 「前委員が就任を断っているのではなく、審査する状況にないと県が判断し、任期切れ後、再委嘱を見送っている点が重要だ。(最高裁判決で責任を認められた)国に反省を求めた伊藤祐一郎知事の今年初めの発言は、私の気持ちと重なる。委嘱見送りは、国に本腰を入れた取り組みを促す決意だと受け止めている」
 ―国はかつて設置していた独自の審査会を来年一月にも復活させる。国審査会の会長を務めたこともあるが、国から委員就任の要請はあるか。
 「任期切れ後も国や鹿児島県から状況説明はあるが、就任依頼はない。今後あったとしても(引き受けるかは)現段階では分からないとしか言えない」
 ―現行基準を見直すべきという意見がある。
 「定められた基準に従い審査に力を尽くしてきた。基準の是非について話す立場になく、国が真剣に悩むべき問題。ただ、鹿児島県だけで千人以上が申請している現実がある。思い切った救済策を期待する思いはある」
 「(基準作りにかかわった)井形昭弘鹿児島大学元学長への批判もあるが、患者救済に尽力していた。大学に赴任した一九七一年から『申請を待つより掘り起こして救おう』と声を掛け、検診などに取り組んでいた」
 ―解決の道筋は見えていない。
 「鹿児島の水俣病はもらい公害。国と熊本県、原因企業のチッソは鹿児島に及ぼした被害を忘れてはならない。三者は問題解決のために真剣に取り組んでほしい」

 以上が記事の全文である。社会部の園田尚志記者が私のもとにインタビューにこられたのは記事の前日の3月23日で、わずか30分ほどのインタビューであったが、私が話した事が完璧に要点をついてまとめてあり、さすがプロの記載と感嘆した。特につけ加える事はないが、若干アドリブで追記したい。

 井形先生が鹿児島大学第三内科の初代教授として鹿児島にこられたのは昭和46年10月で、私はその時、縁あって井形先生の門下生に加えていただける幸運にあった。この時の感動的な出会いについては、私の講演「夢追って30余年」に掲載してあるのでご参照願いたい。
 井形先生は、当時42歳のお若さで、患者さんの役に立つ理想の医療を実践しよう、という理想にに燃えておられ、私達若者は、先生から灯していただいた火を、大事にしながら、さらに大きく燃え広げさせていた。井形先生が着任早々、我々若者におっしゃった言葉が今も頭に焼きついている。「我々は水俣病の被害者救済に全力で取り組まなければならない。水俣病は、決して熊本県だけに存在する問題ではない。水俣市は、鹿児島との県境にあり、鹿児島県にも大勢の被害者がおられるにちがいない。ただだまって待っていたのでは救済が遅れてしまう。掘り起こし検診が必要だ。被害者を探し出し、救済しなければならない。その為には、神経内科の専門医の我々を始めとして、鹿児島大学医学部が全面的に頑張るしかない。大変な作業で、一見報われない作業であるが、被害を受けた患者さん方のために、一緒に頑張ってもらえないか。」と。 この、井形先生の言葉に、我々青年医師は奮い立った。どんな困難をも乗り越えて頑張ろうと決意した。検診業務は、大変困難な業務であった。しかし、我々は、まさに歯を食いしばって頑張った。この、掘り起こし検診が、完璧に軌道に乗ったのは、井形先生と情熱を共有して、同じ志で取り組んでくださった一人の行政官の力が大きかった。左の新聞の記事をご覧いただきたい。井形先生が鹿児島に赴任されたわずか一ヵ月後の昭和46年11月12日の南日本新聞である。鹿児島県公害課長の内山裕先生は、当時、46歳。およそ通常の行政官の常識をこえた、理想に燃えた熱血漢であったため、初対面の時からお2人は意気投合し、水俣病の被害者救済のために立ち上がったのであった。この歴史的出会いについて語ることなしには、鹿児島県の水俣病行政のその後を理解することは出来ないと思う。
 行政の方で、通常の常識を超えた発言で、最近私が感動したのが右の新聞記事である。この記事は今年の1月4日の南日本新聞のもので、念頭所感で伊藤祐一郎知事が述べられたものである。鹿児島県御出身だけあって、県民の痛みのわかる知事と、感銘を受けたのであった。

(平成18年3月27日 納 光弘 記)